※信じるものは、squirrel?
ここでは、私(福本)が今までの生活の中で、感じたことや、思ったこと、印象に残った言葉など、適当に述べてます。 ちょっと、暗い内容もありますが、まあ、こういう意見もある、と適当に読んで下さい。
いままで、「あれ欲しい」「これ欲しい」といろいろ思ってた。 その全てが手に入ったわけではないが、ある程度は手に入れることができた。 例えば、車とかバイクとかは、「欲しいなあ」と思ってしばらくすると、知人から譲り受けたり、親に買って貰ったり、という具合である。
「本当に欲しいものは、強く念じれば、いつか必ず手に入る」
これは、友達の言葉だが、まさにその通りだと思う。 手に入らないことがあるのは、本当に欲しいと思っていないからか、あるいは、念じ方が足りないからなのだ。 ちなみに、今、密かに欲しいものがあり、強く念じているのだが、未だに手に入らない。 これを手に入れることができれば、上の言葉を証明することができるのだが(^_^;)
12月と3月の風物詩である、道路工事。 予算を使い切るために、わざわざきれいな道を掘り返す。 しかも、至るところで同様の工事をしてるから、そこらじゅう渋滞しまくり。 全く迷惑極まりない。 なぜ、こんな馬鹿なことするんだろう。 金が余ってるんだったら、もっと違うところを整備しろ。 カーブミラーやガードレールの設置とか、悪路の補修とか。
しかし、まあ、お役所にも事情があるから、これは、仕方の無いものだと割り切るようにしてる。 でも、一つだけ言いたいことがある。
「掘り返した後は、ちゃんと戻しとけ!!!」
工事の終った次の日の夕方、そこを通ると、なんと、直径17,8cm、深さ4,5cm程の穴が開いてるではないか。 車の場合、こんなのを越えたり、避けたりするのはいとも簡単にできるであろう。 いや、もしかすると、そんなの気付かずに、「あれー、何か踏んだかもせんなー」で済むかもしれない。 しかし、二輪の場合、そうはいかない。 コース上に穴があると気付いたときには、時すでに遅し、もう突っ込むしかないのだ。
実際、突っ込んでしまった。 しかも、スクーターで。 あのタイヤサイズ、サスペンションに対して、この穴は結構きついものがあった。 「ガゴッーン」という、ものすごい音を立てた。 身体中にショックが伝わった。 危うく、ハンドルから手が離れそうになった。 なんとかその場は耐えたが、気が付くと、バックミラーが壊れていた(;_;)
とにかく、さんざんだった、あの道路は。 あれで、事故ってても、こっちの単独事故になるんでしょうね。 とりあえず、バックミラー弁償してくれ>生駒市
お酒は嫌いだ。 というより、飲めないのだ。 飲んで、「おいしい!!」と思ったことなど、一度もない。 いや。 何回かはある。 それは、日中に太陽の下で何か作業とかして、喉が渇いてても何も飲まんかったときだ。 その後の、最初の一口は、さすがに、「くー、きくー」って感じだ。 でも、それだけだ。 二口目は「やっぱり、まずい」、三口目は「もういらん」となる。
そもそも、お酒が飲めるかどうかは体質にによるのだ。 お酒が飲めるのは、体中のアルデヒドという酵素がアルコールを分解し、身体に害の無いものに変えてくれるからなのだ。 統計によると、日本人にはこの酵素の働きの弱い人が多く、さらに、全体の10%の人は、この酵素自体がないという。 お酒を飲めないのは、こういった人達だ。 したがって、お酒を飲めない人にとっては、アルコールは身体に有害なもの、すなわち毒であるから、身体が受け入れようとしない(お酒をまずく感じるとか、飲むとすぐに気分が悪くなる)のは当然なのだ。
「練習すれば飲めるようになる、なんてことはない。 飲めんもんは、どんなけ飲んでも、やっぱり飲めんのだ」
しかし、そんなことはお構いなく、宴会の席では必ず全員に「飲めや、飲めや」となる。 「飲めないんです」と言っても「まあ、まあ、一杯ぐらい」となり、無理に飲まされるのだ、毒を。 人の嫌がることを無理強いし、ましてそれが命に関わることであれば、これは立派な犯罪ではないのか。 でも、この風潮は、一向に改善される気配はない。 まさに、宴会大国日本なのだ。
長崎の友達ができた。 初めて会ったとき、「わあ、九州弁しゃべってるー」と感心した。 あたりまえのことなのだが、ただ、今まで身近に九州弁を聞いたことがなかったので、なんとなく嬉しくなったのだ。 逆に、その友達も、やっぱり同じように、「わあ、関西弁しゃべっとっ」と思ったらしい。 曰く、「みんな漫才やっとっと思うとった」
しかし、まあ、九州の言葉は、聞いていて心が和む(ような感じがする)。 例えば、「でも」が「ばってん」、「〜ない」が「〜なか」、「〜ている」が「〜と」、「そいじゃあーね」が「なばね」とか。 いろいろあるけど、なんか聞いていて心地よい(^_^)
ところで、
「“ばってん”、は英語の“But, then”から来とっと」
らしいんですけど、実際はどうなんでしょう。 ちなみに、熊本の友達は、「でも」のことを「だけん」と言ってたような気がする。 これは“だけど”と“but, then”を足して二で割ったような感じだ。
近所で猫を飼ってるうちがある。 真っ白なかわいい猫だ。 最初の頃、そのうちの前を通ったとき、猫は目が合うと逃げていった。 どうも、猫ってのはすごく警戒心が強いようだ。 なんとか、友達になりたいなと思い、「What's Michael ?」を参考にし、何回かアプローチを試みる。
猫とコミュニケーションをとりたいと思ったら、
「座って、舌を『チッ、チッ、チッ』と鳴らし、人差し指を突き出す」
といいらしい。 実際にこれを行なったものの、興味を示すが、あくまでも無視を決め込んでるようだ。 少し、近付いてみる。 逃げられた。 でも、懲りずに、チャンスがあれば何回も試みる。 結局、猫のほうも根負けしたのか、呼べば来るようになった(^_^)。 で、なでてやると、「ゴロゴロゴロ」と気持ち良さそうにする。
最近では、目が合うと猫の方から寄ってきてくれるようになった。 無茶苦茶嬉しい。 ここまでくれば、こっちのもんだ(何がや)。 ちなみに、このコミュニケーション法は、人間に対しては使用できませんので。 あしからず。
基本的に動物が好きだ。 以前は、犬を飼っていたこともある。 こいつは、私が小学五年の時に、橋の下に捨てられていた、産まれたばかりの仔犬を拾ってきたものだ。 ジョンと名付けた。 無茶苦茶可愛がった。 噛まれたりしたこともあったけど。
でも、ある朝、突然、ぱたっと倒れて、その日の夕方、12年間の生涯を終え、永遠の眠りについた。 あまりにも突然だった。 深夜になってから床に就くと、ジョンとの思い出が走馬灯のように浮かぶ。 そういえば、あんなこともあった、こんなこともあった、と今まで忘れていたとが次から次へと思い出される。 また、あのときもっと遊んでやればよかったなと、ちょっと後悔することもあった。。。
それにしても、ペットを捨てる人が後を断たない。 何故、そんなことができるんだろう。
「ペットを捨てる奴に、ペットを飼う資格はない」
小学生のとき、休み時間は運動場でドッジボールなどして遊ぶのが普通であった。 でも、早く運動場に出ていかないと、いい場所が取られたり、また、場所を確保しても人数が少なければ、高学年の連中に強奪されたり、ということがあった。 それで、運動場の使用法について、一度、学級会でもめたことがある。 議論では、「このままでいい」という意見と、「学年ごとに使用場所を決める」という意見が出された。
「このままでいい」という意見の理由の一つに、今でもはっきり覚えているものがある。 「私たちが低学年のころは、運動場使われんかった、今になって低学年の子に運動場使わせたら損や」というものである。
ちなみに、この発言をしたのは、結構勉強のできる女の子であった。 なんと、さもしい心の持ち主なのであろうか。 それとも、普通はこう考えるのであろうか。 なぜ、「私たちが低学年のころは、運動場使われんかった、今からは低学年の子にも運動場使わせてあげよう」と、考えることができないのであろうか。
結局、学級の意見としては「このままでいい」にまとまった。 「使わせたら損」という考えがメジャーだったのだ。 やはり、小学生ということもあり、多くの子は自分のことしか考えられなかったのであろうか。
「自分さえよくなれば、それでいい」
よりも、
「(自分が多少譲ることがあっても、それ以上に)皆がよくなれば、それがいい」
の方がいいに決まっている。 今でも前者の考えの奴をよく見るけど、そういう奴はちょっとどうかなあと思う。
小学一年か二年のときだったかな。 他のクラスの何とか君が、不幸にも病気のため、その短い一生を終えてしまった。 そのとき、担任の先生は泣きながら、以下のような話をしてくれた。
「運命というものは、生まれたときにすでに神様によって定められている。 だから、短い人生であっても、それが宿命なのだ。」
これを聞いて、幼心にも妙に納得したのを覚えている。 それ以来、死への恐怖は無くなったし、また、何が起ころうとも「それは運命だから、仕方のないことだ」と割り切ることができるようになった(と思う)。 この考え方がいいのか悪いのかは、今のところわからない。 でも、こういうふうに考えでもしなければ、やってられないなあ、と思うことはあるんではないでしょうか。
福本ホームページ